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●汚れた英雄と日本のバイクレース黎明期
不朽の名作といわれる60年代文学の傑作、故・大藪春彦氏の小説「汚れた英雄」。日本で二輪のレースがおこなわれ始めたころを舞台に、大いなる野望を胸に秘め果敢にレースに挑む主人公北野晶夫。ここでは日本の二輪レースの歴史を小説「汚れた英雄」を通して見ていきたい。
第一巻、第二巻は主人公北野晶夫の自我形成過程であり、第三巻、第四巻はその黄金期となっている。
1945年敗戦国となった日本。日本全土の都市は焼き尽くされ、2つの都市が原爆によって一瞬に消滅した。GHQによる占領が始まり人々は日々の飢えをしのぐのも大変なそんな混沌とした先の見えない時代。そんな激動の時代に晶夫は幼年期をすごす。
晶夫は戦災孤児だった。社会主義者の父親は治安維持法で逮捕され獄死。母親は東京大空襲で死んだ。亡き母の兄の板橋区の自転車屋にひきとられるが孤児の晶夫は伯父の子らと差別待遇され、伯父家族の食い残した魚の頭や骨を食って魚肉を食う彼らより骨格が逞しくなる。彼の仕事は自転車のかっぱらいだった。これを修繕して伯父が売る。その駄賃で晶夫は闇市でモツ焼きを食い、筋肉をつける。闇市での朝鮮人との遭遇は、喧嘩してコテンパンにやられた晶夫に格闘技の必要性を痛感させる。彼は母親の美貌をひいていた。その美貌を武器にズベ公たちにみつがせて得た金で少林寺拳法の道場へ通う。そうして習得した喧嘩技術によって不良少年たちに君臨するうち、ヤクザ予備軍と衝突、彼は輪胴拳銃でヤクザを撃退する。拳銃は、米兵オンリーさんになった不良少女から入手した。高校時代の彼は一にバイク、二に金、三に女に生きる。女は金蔓にすぎない。 少年時代のズベ公への性的奉仕によって彼は女嫌いであって、生涯、女には狂わない。抱いて、金を貢がせて、乗り換えるのみだ。
都市は壊滅的破壊による交通機関の絶対的不足から原動機付きの自転車(ポンポン)が飛ぶように売れるようになる。朝鮮戦争特需の波にのり、やがてポンポンはスクーターを経て125ccへと人気がうつってゆく、オートバイ生産メーカーも全国で120社以上に急増。伯父の自転車屋もやがてオートバイ屋になっていった。
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| YAMAHA YA-1 |
YAMAHA YDS1 |
ライラックUY |
HONDA ドリームCR71 |
1955年になると日本で最初の本格的レースとなる浅間レースが開催される。コースは一周1.2キロの未舗装で今でいうダートコースだったが、それだけにマシンの耐久性が重視された。これまで日本製マシンは品質の悪さが目立ったが、各メーカーがレースに向け品質向上と出力アップを目指してゆく。時代は作れば売れる時代から品質性能重視に代わりつつあったのだ。このレースに晶夫は独自にチューンアップしたヤマハYA-1で出場する。強豪メーカーチームを相手にトップを独走するものの、晶夫の走りにマシンが持たなかった。
同世代者が大学に進む次期、彼は基地に入る。将校の女房をコマし、機械修理の腕を買われてキャンプで働き、やがてビアンキという男色家のオートレース界の元老に素質を見い出されて単身アメリカへ行く。1959年このとき北野晶夫は二十歳。肉体の武装を完了し、自我を確立し、「世界」が見えていた。彼は連戦連勝し、1960年代に入るとともにヨーロッパに舞台を移す、そしてついに念願の世界GPレーサーまで上り詰めることとなる。当時最強のMVアグスタチームと契約を交わすのだが、その契約内容は常にMVのイタリア人エースライダーを優勝させ、晶夫は勝ってはならないという不当な契約であったのだが…。この年ホンダはマン島TTレースに衝撃的デビューをはたし大健闘を繰り広げる。翌1961年、MVアグスタはレース界から引退、晶夫は世界GPをMVマシンのプライベーターで戦うことになる。ホンダは世界GPに高出力多気筒マシンを次々と送り込み、GP125ではトムフィリスがホンダで初優勝を飾り、GP250では高橋国光が日本製マシンで日本人による初の勝利を飾る。日本製マシンの活躍で徐々に晶夫のMVでは勝つのが難しくなっていくのだが…。
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・汚れた英雄 第一巻、第二巻、第三巻、第四巻
徳間書店/昭和42.5、昭和43.1、昭和43.7、昭和44.6
オーヤブホットノベルシリーズ39〜42/昭和46.11、昭和46.11、昭和46.11、昭和46.11
大藪春彦活劇選集39〜42/昭和50.8、昭和50.8、昭和50.9、昭和50.9
大藪春彦選集39〜42/ 昭和54.5、昭和54.5、昭和54.5、昭和54.5
角川文庫/昭和54.8、昭和54.8、昭和54.8、昭和54.8
徳間文庫/平成4.4、 平成4.4、 平成4.5、平成4.4
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●実在した”汚れた英雄”
草創期のモータースポーツ界に彗星のように登場し、世界のサーキットを華やかに疾走した男。「幻の天才ライダー」伊藤史郎(ふみお)
まだ水準の低かった国産マシンを駆って、先進のヨーロピアンマシンを堂々と打ち破った。彼の豪快なライディングは、他のライダーを圧倒し、ファンを魅了した。
栄光と欲望の荒野を駆け抜けた男。しかし、栄光の背後には転落の谷底が牙をむいていた。世界一を射程内に捉えた絶頂の時、ピストル密輸にからむ暴力団とのトラブルでサーキットを追われ、愛人と逃げるようにアメリカに渡ったと”伝説”はいう。以来、不確かな噂が囁かれるだけで、彼の行方を知るものは、いない…。
1955年 11月
・16歳で第一回浅間火山レース、ライト級(250cc)優勝。天才少年が衝撃のデビューを飾る。
1958年 5月
・アメリカ・カタリナ島の国際レースに出場、6位入賞。
1959年 8月
・第三回浅間火山レース、耐久セニア級(500cc)優勝。
1960年 4月
・第二回全日本モトクロス(朝霧高原)251cc以下級、オープン級優勝。
1963年 2月
・デイトナ・グランプリ(250cc)優勝。
4月
・シンガポール・グランプリ(250cc)優勝。
6月
・マン島TT、世界でもっとも古い歴史と最高の権威を誇るレース、2位。
・オランダ・グランプリ(250cc)2位。
7月
・ベルギー・グランプリ(250cc)優勝。
11月
・第一回日本グランプリグランプリ(250cc)世界チャンピオン、ジムレッドマンに0.1秒差で2位。この年、世界ランキング3位。
1964年 3月
・シンガポール・グランプリでトップを独走中、転倒。頭部を強打するなどの重傷を負う。
1965年 2月
・ピストルの密輸および不法所持で新宿淀橋署に逮捕される。
1966年 8月
・日本を出国、失踪したまま以後行方不明…。
「消えた天才ライダー伊藤史郎の幻」CBSソニー出版/1985初版
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